喜和子RETURNS!



太地喜和子RETURNS!其ノ壱『近松心中物語』

特集:太地喜和子 第一弾『いい女列伝 伝説の名女優!太地喜和子』も合わせてご覧ください。



Katteni Special Thanks ! To Kishin Shinoyama.

美しい。彼女こそは「役者という病気」なのだ。 ~和田勉「女優誕生」より。

「’92年10月13日、払暁。女優・太地喜和子、水死。享年48歳――」

刺激的で過激で奔放な”いい女”。恋と愛と舞台にかけた一女優の生涯――何事にも全力投球だった。芝居にも人間関係にも、生きることそのものにも。そして、彼女は逝ってしまった……。
1992年8月東京・日本橋の三越劇場で、太地喜和子は念願の役「唐人お吉ものがたり」を演じて拍手喝采を浴びた。劇中で、新内(浄瑠璃の一種・心中ものが多い)を語る芸妓 お吉の熱演は鬼気迫るもので、唐人お吉が乗り移ったかのように観客を圧倒した。東京公演が終わり、名古屋、大阪ももちろん好評で10月12日、静岡県伊東での公演が終わったあとの事故だった。スナックのママの乗用車に劇団の俳優二人と乗り込み、観光桟橋に海をながめに行ったのだった。船上から海をながめたかったが誰もおらず、車をUターンした時に海に落ちたという事故であった。俳優二人とママは自力で抜け出したが、太地さんはだめだった。翌13日は、お吉の地元、下田で行われる初の「唐人お吉ものがたり」の公演となるはずだった。 



「太地喜和子は、女優以外の何者でもない女優でした。」

”文学座のホープ””杉村春子二世”.....ふっくらした頬の、きれいなアーモンド型の瞳と猫のようにつりあがった目に派手に目立つ化粧、笑いかける寸前のようにほころびかけた口元・・あっけらかんとした顔に眩いばかりの存在感とたぐいまれな妖艶さを持ち、大酒豪としても知られ、十八の時の三國連太郎との同棲生活、津坂匡章(秋野太作)との結婚、離婚をはじめ、峰岸徹、伊丹十三、石坂浩二、津川雅彦、中村勘九郎、私生活における恋愛沙汰の多さでもよく知られた陽気で奔放なセックスシンボル。



Katteni Special Thanks ! To Syoutarou Akiyama.

渋谷の日本料理屋の個室で太地喜和子と会った。実際に会ってみておどろいたのは、その豪放磊落さである。昼間から大いに飲みかつ喋る。あぐらをかいてもちっともおかしくない風体で、女だてらに「ワハハハハ」と破顔大笑するのだ。
「ね、ワダさん、あたしが分かった?あたしはね、女でも男でもないんだよ、役者なんだぜ」
と。これはもしかして、女勝新太郎ではあるまいか?その歩き方はまさに外股で、着ている着物の柄は男物である。僕はガハハと最敬礼し、ただ一回の逢瀬で、彼女と心中を決めてしまった!

~太地に会うまで、太地がもっともキライな役者だったという和田勉「テレビ自叙伝 さらばわが愛」より。



『近松心中物語 それは恋』
演出 蜷川幸雄 / 脚本 松元秋代 / 照明 吉井澄雄 / 装置 朝倉摂

出演 平幹二朗 太地喜和子 菅野忠彦 市原悦子 嵐徳三郎 緋多景子 金田龍之介 山岡久乃

人形出遣い 辻村ジュサブロー

劇中唱歌 森進一 「近松心中物語 それは恋 」

  

忠兵衛(平幹二朗)    梅川(太地喜和子)

  

お亀<市原悦子>     与兵衛<菅野忠彦(菅野菜保之)>

東宝の製作で1979年に帝国劇場で初演されヒット、その後も繰り返し上演される人気演目となり、上演回数は1000ステージを超えのべ150万人もの人々が目撃した昭和演劇史に残る名作。1989年にはベルギー、イギリス公演が行われた。2004年には、再演を重ねるうちに様式化されてしまっていた同作品を蜷川自ら演出しなおした『新・近松心中物語』が上演された。






近松 門左衛門(ちかまつ もんざえもん、近松門左衞門 承応2年(1653年) - 享保9年11月22日(1725年1月6日))は江戸時代前期の元禄期に活躍した歌舞伎・人形浄瑠璃の劇作家。本名は杉森 信盛。越前国生。
浄瑠璃では竹本義太夫、歌舞伎では坂田藤十郎と組んで活躍した。100以上の浄瑠璃を書いたが、そのうち約20曲が世話物、残りが時代物であった。芸の面白さは虚と実との皮膜にあるとした「虚実皮膜論」が知られる。江戸時代から見て過去の出来事を扱ったのが「時代物」で、同時代のことを主題にしたのが「世話物」。

「わかりやすくいうのなら、近松は30代は浄瑠璃、40代が歌舞伎、また50代からが浄瑠璃台本を再開専念して、60代になって『国性爺合戦』『平家女護島』『心中天の網島』『女殺油地獄』というふうに円熟した傑作を問うたというのが、おおざっぱなガイドラインなのである。
 その50代の浄瑠璃再開にあたったのが、『曾根崎心中』だった。」
(松岡正剛の千夜千冊 近松門左衛門『近松浄瑠璃集』上・下より)



<秋元松代>

1911年(明治四十四)年横浜市生まれ。三十四歳から三好十郎門下で戯曲を書き始め、ラジオやテレビドラマでも活躍。民間伝承に取材し、抑圧された民衆像を骨太な筆致で描いた。劇作家の三好十郎に師事し、47年に初の戯曲『軽塵』を発表。49年に戯曲『礼服』が俳優座によって上演され、注目を集めた。その後『常陸坊海尊』で芸術祭賞、『かさぶた式部考』で毎日芸術賞、『七人みさき』では読売文学賞を受賞するなど、日本各地の説話・伝説などに材を採った重厚な作風で評価を得た。作家や俳優らと交際するが、激しすぎる性格ゆえに衝突、孤立しがちであった。79年には紫綬褒章を受章。『近松心中物語』は、79年に帝国劇場で初演。通算上演回数100回目を迎えた。近松は『卯月の潤色』では、お亀との心中に生き残った与兵衛に見事に剃刀で後追い心中させたが、秋元戯曲は与兵衛にあえて生き続ける道を与えている。書いているうちに秋元は「この男は死ねない」と思った。「生き残らせようと思ったという。与兵衛が『寿命のくるまで生かしといてや』と言うところまで持っていったときには嬉しかったと語っている。2001年4月24日肺がんのため亡くなった。90歳だった。



僕が『近松心中物語』を秋元さんにお願いしたのは「なぜ日本の民衆は心中を美化して語り継いで行くのか」が、明らかに見えてくるような戯曲をやりたいと思ったからです。

  

演出 蜷川幸雄 / 脚本 松元秋代

『近松心中物語』は、秋元松代作、蜷川幸雄演出による舞台作品。近松門左衛門の十五編ある心中物のなかの『冥途の飛脚』(1711年初演)の梅川・忠兵衛をベースに、『ひぢりめん卯月の紅葉』(1706年初演)とその続編『跡追心中(近松の原作では心中しない)卯月の潤色(いろあげ)』(1707年初演)のお亀・与兵衛抜き出し、この二組の心中行を織り交ぜて退廃的な元禄文化の尾を引く当時の大阪町人の生きざま、郭の風景、街の景色を背景に大胆に改作されて書かれた傑作。添い続けるために心中を余儀なくされていく二組の男女の物語。斬新かつ大胆な演出で国内外に評価の高い「世界のニナガワ」が鮮烈な恋の物語を紡ぎだす。



見事な舞台装置は朝倉摂。



「開幕冒頭の三分間の演出に工夫をこらし、開幕直後かに鮮烈な趣向で観客の心を一挙にわしづかみにし、劇中に引きずり込んでしまおうという蜷川得意の演出戦略、いわゆる”蜷川マジック”」



幕が開くと、左右袖、正面奥と三方を、軒をならべた遊女屋にかこまれた空間に、遊客やら物売りやらぞめき歩く遊び人やら芸人があふれ、その大群衆の中を進むきらびやかな花魁道中ガ練り歩く圧倒的なダイナミズム!巨大な月や屋根にも廊下にも咲く彼岸花や大群衆のストップモーション、梅川、忠兵衛の心中に、渦巻き降りしきる膨大な吹雪、本水の川にしぶきを上げて飛び込む与兵衛・・・。森進一の絶唱にのって、辻村ジュサブローの人形に誘われていく魅力溢れる近松の世界。



豪奢な揚屋が軒を連ねる大阪新町の通り筋は、今日も一夜の夢を追い求める男たちと媚を売る女たちの嬌声でにぎわっている。

 

大坂新町の古道具商の婿養子傘屋与兵衛(菅野忠彦)は、廓(くるわ)に居続ける毎日。悲しむ女房お亀(市原悦子)を見かねた姑お今は、与兵衛を連れ戻す。一方、飛脚屋亀屋の養子忠兵衛(平幹二朗)は、店の丁稚が拾った金を届けるため新町へ。そこで遊女梅川(太地喜和子)と出会い、瞬く間に恋に落ちる。







行き交う瞬間、相手を見て惚れる。出会った瞬間、舞台上で二人だけにスポットライトが当たった時の緊張感に座席も静まる。梅川太地の美しさも息をのむほど。時間が止まって、ゆっくり流れる主題歌…。遊女として落ちてはいけない恋に、自分を否定するよう後ずさる太地の間合いは見事!梅川が離れてしまって、それでも気になる忠兵衛。一度は帰る道を見やり橋を渡りかけ、されども振り返る忠兵衛。梅川、気になり反対の橋を身を乗り出すように忠兵衛と目を合わす。…とやはり目の合う梅川。二人はその瞬間に<恋>に落ちる。
忠兵衛、再度帰り道を見やり俯き加減に足を進めるも、橋より先に進めない。音楽が盛り上がる。忠兵衛の顔が上がり目つきが変わる。振り返り何かに憑かれたように走り出し女郎屋の暖簾をくぐる。忠兵衛・梅川、運命の出会い!



「忠兵衛様とおおいなはりましたなァ」と駆け込んでくる梅川。
「奥に…」と導く梅川に、先客があるのに「大事、無いのンか…?」と心配する忠兵衛。「八右衛門様には後ほど旦那様より言い訳がござりましょう…」と梅川もお客を断って怒られるのを覚悟で忠兵衛と一緒にいたい様子。おずおずと梅川の手に触れ握る忠兵衛。寄り添い、互いを見つめ廓の奥に入る。



それから離れがたい仲になっていく二人ですが、梅川に身受けの話が来てしまい、いてもたってもいられない忠兵衛は幼馴染の与兵衛の店に行く。梅川を大尽に渡さず、身請けしたい忠兵衛は、与兵衛に泣きこむ。与兵衛は忠兵衛に同情して金庫をこじ開けて店の金五十両を貸してしまう。だが、手付金を払って急場を切り抜けるも束の間、大尽の代理人八右兵衛(金田龍之介)が梅川の身請金三百両持って来たが、居合わせた治右衛門から梅川は忠兵衛に身請けさせると言われ、その腹いせに忠兵衛の悪口を散々に並べ立てます。あまりの悪態に忠兵衛はついに我慢出来なくなり、思わず二階から駆け下りて八右衛門とやり合います。ところが八右衛門のいびりには一層の弾みがつき、金がないことをなじられた忠兵衛は悔しさのあまり、つい無意識に懐中の小判の封印を切ってばら撒いてしまいます。しかし、実はその小判はお屋敷の為替の金だったのです。散乱する小判、科人となった忠兵衛に梅川は・・・



「あなたが科人なら、私も同罪でございます。私ひとりに生き残れというなら、一緒に死ねと言ってほしい――」
と梅川。愛の成就と瞬間にしての転落。





科人となった忠兵衛と梅川は冬の山に逃げ込む。吹雪く谷間で、二人は雪を鮮血に染めて心中する。そして噂の紙吹雪!がいよいよ舞台にも客席にも降ってきます。この量が本当にすごい。(その量たるや4トントラック25台分!)あとからあとからとめどなく降ってきて、あっという間に全員雪まみれ。15分連続して降り続ける雪の中での道行き。真っ白な雪の中、緋色の着物姿の梅川は本当に綺麗で、赤と白の色彩の対比も鮮やか・・・そこで忠兵衛が梅川の首を締め、自分も首を切って後を追い、梅川の上に折り重なるように倒れる。息を呑む官能美!観客は、純粋な悲劇をひたむきに一気に死へと跳躍する梅川・忠兵衛の死に急ぎの美学に酔いしれ、平、太地の入魂の芝居に戦慄する。







 





相擁して吹雪く谷間の雪道を歩く忠兵衛と梅川。二十日余りの道行きの果て、凍てつく雪が重く二人の行く手をさえぎる。梅川は言う。「私ほど仕合わせな女はありませんのや。そう見えますやろ」雪を染める鮮血。重なり合う二人の亡骸を覆い隠すように、雪は降り続ける。



■「それは恋 近松心中物語より」歌 森進一 作詩 秋元松代 作曲 猪俣公章■

朝霧の 深い道から 訪れて 私をとらえ
夕もやの 遠い果てから 呼びかけて 私をとらえ
あふれさせたもの それは恋 わたしの恋



逢う時は 姿も見せず うつつなく けれど確かに
言葉なく 名前も告げず ひそやかに けれど確かに
よみがえる 愛のまこと あふれさせたもの それは恋 わたしの恋

 

ある時は 心許なく 疑いに 思い乱れて
ある時は おそれにゆらぎ 悲しみに 我を忘れて
その故に 愛の祈りを あふれさせたもの それは恋 わたしの恋



『近松心中物語 それは恋』にはもう一組の男女が出てくる。悲恋の極みである梅川・忠兵衛と鮮やかな対照をなすお亀・与兵衛の物語である。こちらは心中するつもりが与兵衛ひとり生き残るという悲劇のなりそこね。店の金を使い込み、忠兵衛との係わり合いで科人となった与兵衛に、お亀は心中しようと誘うが・・・ひとり生き残ってしまう与兵衛。さらに、後追いの首吊りにまで失敗したあと、与兵衛は
「・・・お亀。わしは、よくよくだめな男や。死ぬこともようでけんのや。かんにんしてや。(中略)済まんけど、寿命のくるまで生かしといてや。」
と、与兵衛の血を吐くような独りセリフの後、舞台は一瞬にして序幕の大阪新町の雑踏に戻り、その中に与兵衛が紛れ込み消えてゆくという場面を蜷川は作り出した。この劇は、大阪新町の騒然たる雑踏のなかの与兵衛で始まり、与兵衛で終わるという円環を成しています。全ては与兵衛の泡沫の夢であったのかという見方もできて面白いところ。
このラストは当初、秋元の台本にはなく、もう一度冒頭の郭に戻す演出をしたい蜷川は、秋元に戯曲の直しを恐る恐るお願いし、了解を得たものだった。
観客は、純粋な悲劇をひたむきに一気に死へと跳躍する梅川・忠兵衛の死に急ぎの美学に酔いしれると同時に、脇役だったはずの三枚目役の与兵衛とお亀の駄目人間ぶりと、心中するつもりがひとり生き残るという悲劇のなりそこねの与兵衛の、自身の内面に拡がる虚ろなものを意識し、卑小な自分を笑いながらもしぶとく生き延びる様の可笑しみに共感を覚え、この芝居の本当の主役は与兵衛だったのかと納得するのも一興。後に、秋元松代は書いているうちに秋元は「この男は死ねない」と思った。「生き残らせようと思ったという。与兵衛が『寿命のくるまで生かしといてや』と言うところまで持っていったときには嬉しかったと語っている。



<アートディレクター 辻村寿三郎(ジュサブロー)>
1933年11月、満州、錦州省朝陽に生まれる。
人形師、着物デザイン、舞台、映画等の衣裳デザイン、演出、脚本、アートディレクター等多岐に渡り活躍。22歳で上京、前進座の河原崎国太郎氏の紹介で小道具制作の会社に就職。26歳で独立し、幼い頃よりの趣味であった創作人形を一生の仕事と決意。1974年NHK総合テレビ「新八犬伝」の人形美術を担当、一躍注目を浴びる。その活動は国内のみならず、数回に及ぶ海外公演、様々な作品でヨーロッパ、アメリカ等、海外での評価も非常に高い。ロックミュージシャンや他のアーティスト達にも大きな影響を与え、総合的なアーティストとして各方面より大きな注目を集めている。

 



■装置 朝倉摂■舞台美術家


1922年東京生まれ。伊藤深水に師事し「働く人」で、1942年上村松園賞受賞。その後舞台美術を中心に活動。彼女の独創性と表現力は海外でも高く評価され、これまでに五百本以上の芝居の舞台美術を手がけてきた。
彫刻家朝倉文夫の長女。幼時より才能教育を受け、父朝倉文夫の方針で学校には行かずに全部家庭教師で通した。
昭和16年第4回新文展に初入選。17年新美術人協会に参加。戦後26年第15回新制作展に入選して同会会員となり、以後同展に「求める人々」などの人物群像を発表するが、のち抽象的作風に転じる。この間、28年に伊東深水の門下として日本画で第3回上村松園賞受賞。日本国際美術展、現代日本美術展に毎回出品。45年新制作協会退会、ロックフェラー財団の招きで渡米。また60年代より舞台美術の仕事を始め、以後、前衛劇からオペラまで幅広く活躍。55年「近松心中物語」「盟三五大切」などでテアトロ演劇賞を、61年「にごり江」で芸術祭賞受賞。平成15年東京・北千住に16年秋開館予定の劇場"シアター1010"の芸術監督に就任。その他の代表作に「明治の柩」「リア王」「越前竹人形」「ヤマトタケル」など。著書に「朝倉摂のステージ・ワーク」(全2巻)、「朝倉摂舞台空間のすべて」「朝倉摂のステージワーク1991-2002」がある。イラストレーター、装丁家としても活躍。桑沢デザイン研究所教授もつとめた。





■世界のニナガワ■

「ヴィスコンティもフェリーニも、晩年は力のある仕事をしていない。ピーター・ブルックもどんどん小さな世界を描くようになっている。そういう優れた人たちの収束の仕方にぼくは抵抗感がある」


1935年10月15日、埼玉県川口市生まれ。
55年に劇団青俳に入団し、67年に劇団現代人劇場を創立。俳優として活躍していたが「自分は演出に向いている」と悟り演出家に転向し、アングラ・小劇場運動盛んな時期に演出家としてデビュー。69年『真情あふるる軽薄さ』で演出家デビュー。72年演劇集団「櫻社」結成、74年同劇団を解散後、『ロミオとジュリエット』で大劇場演出を手掛けるようになった。70年代半ばから商業演劇に活動の場を移し、大劇場でのダイナミックな演出で話題作を次々と発表。鮮烈なヴィジュアルイメージで観客を舞台の世界に惹きこむことを得意とする、現代日本を代表する演出家のひとり。その演出作品は国内外で評価が高く、「世界のニナガワ」とも呼ばれる。また、短気であり、妥協と甘えを一切許さない俳優指導の厳しさでも知られ、世間一般的には「灰皿を投げる演出家」と厳しいスパルタ指導のイメージが強い(現在は煙草を吸わないため、灰皿は投げないが、怒号は飛ぶ)。以来、名実共に演劇界の第一人者として活動し続け、近年も、98年から始まったシェークスピアの全作品上演計画、上演時間が10時間半という昨年の『グリークス』の公演など話題に事欠かない。
また、83年の『王女メディア』ギリシャ・ローマ公演を皮切りに、毎年海外遠征を行い、ヨーロッパをはじめアメリカ、カナダなどで高い評価を得ている。
ことに近年では、96年『夏の夜の夢』、97年『身毒丸』、98年『ハムレット』と、連続したロンドンでの公演が話題を呼び、さらに99年から2000年にかけてはロンドンとストラッドフォードで、ロイヤルシェークスピアカンパニーと共に、『リア王』を長期上演した。
88年『近松心中物語』の第38回芸術選奨文部大臣賞をはじめ受賞歴多数。
92年には、英国エジンバラ大学名誉博士号を授与された。
また、84年に始めた「蜷川スタジオ(ニナガワカンパニー)」では、若手の演劇人たちと共に、積極的に実験的な演劇作品を生み出し続けている。
2006年彩の国さいたま芸術劇場で55才以上の演劇集団「さいたまゴールドシアター」創設。 



「蜷川の舞台には強烈な色彩、強烈な舞台造形、強烈な人物描写、そして信じられぬほどの優しさ、繊細さ、ここにはヨーロッパ・アメリカ演劇が失ってしまったすべてがあります。あななたたちの演劇には真の世界性を獲得しています。・・・。」
(「別冊太陽 現代演劇60’s~90’s」)


【受賞歴】
1978(S53) 第4回菊田一夫演劇賞
1982(S57) 第37回芸術祭大賞
1986(S61) 第14回テアトロ演劇賞
1988(S63) 第38回芸術選奨文部大臣賞
1988(S63) 英国エディンバラ大学・名誉博士号
1997(H09) 第4回読売演劇大賞最優秀演出家賞
1999(H11) 第20回松尾芸能賞
2000(H12) 第41回毎日芸術賞
2000(H12) 第70回朝日賞
2000(H12) 第35回紀伊國屋演劇賞『グリークス』の演出に対して
2001(H13) 第8回読売演劇大賞最優秀演出家賞『グリークス』『テンペスト』
2001(H13) 紫綬褒章
2002(H14) 名誉大英勲章第三位(CBE)
2004(H16) 第3回朝日舞台芸術賞グランプリ『ペリクリーズ』
2004(H16) 文化功労者
2005(H17) Walpoleメダル受賞
2005(H17) 第53回菊池寛賞
歌舞伎座7月公演「NINAGAWA十二夜」において、シェイクスピアと歌舞伎を見事に融合させた画期的な舞台を創造。歌舞伎の可能性を飛躍させた演出に対して。
2006(H18) 埼玉県芸術文化振興財団芸術監督就任
2006(H18) 第5回朝日舞台芸術賞特別大賞
2006(H18) 第13回読売演劇大賞 大賞・最優秀演出家賞『幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門』『メディア』『NINAGAWA十二夜』『天保十二年のシェイクスピア』
【映画監督作品】
1980(S55) 『海よ、お前が-帆船日本丸の青春』
1981(S56) 『魔性の夏』 松竹
2003(H15) 『青の炎』 東宝
2004(H16) 『嗤う伊右衛門』 東宝
【テレビドラマ監督作品】
1990(H2) 『水の女』 テレビ朝日
1990(H2) 『風ものがたり』 関西テレビ
1997(H9) 『三番テーブルの客』 フジテレビ
【著書】
1982(S57) 『BGMはあなたまかせ』 サンケイ出版
1989(H1) 『Note 1969-1988』        河出書房新社
1993(H5) 『千のナイフ、千の目』 紀伊國屋書店
1998(H10) 『蜷川幸雄の子連れ狼伝説』   小池書院
1999(H11) 『蜷川幸雄・闘う劇場』      NHKライブラリー
2002(H14) 『Note 1969-2001』増補完全版  河出書房新社
2002(H14) 『演出術』 紀伊國屋書店
2002(H14) 『反逆とクリエイション』 紀伊國屋書店




それは恋 近松心中物語より
(歌 森進一 作詩 秋元松代 作曲 猪俣公章)

朝霧の 深い道から
訪れて 私をとらえ
夕もやの 遠い果てから
呼びかけて 私をとらえ
あふれさせたもの
それは恋 わたしの恋



逢う時は 姿も見せず
うつつなく けれど確かに
言葉なく 名前も告げず
ひそやかに けれど確かに
よみがえる 愛のまこと
あふれさせたもの
それは恋 わたしの恋



ある時は 心許なく
疑いに 思い乱れて
ある時は おそれにゆらぎ
悲しみに 我を忘れて
その故に 愛の祈りを
あふれさせたもの
それは恋 わたしの恋



流水落花、変転定めなき世とは申しながら、名女優、太地喜和子さんの死を心より悼みここに哀悼の意を表し御冥福をお祈りいたします。君の在りし日を偲びつつ、御霊の安らかならんことをお祈り致します。





それは恋 近松心中物語より
(歌 森進一 作詩 秋元松代 作曲 猪俣公章)

朝霧の 深い道から
訪れて 私をとらえ
夕もやの 遠い果てから
呼びかけて 私をとらえ
あふれさせたもの
それは恋 わたしの恋



逢う時は 姿も見せず
うつつなく けれど確かに
言葉なく 名前も告げず
ひそやかに けれど確かに
よみがえる 愛のまこと
あふれさせたもの
それは恋 わたしの恋



ある時は 心許なく
疑いに 思い乱れて
ある時は おそれにゆらぎ
悲しみに 我を忘れて
その故に 愛の祈りを
あふれさせたもの
それは恋 わたしの恋



流水落花、変転定めなき世とは申しながら、名女優、太地喜和子さんの死を心より悼みここに哀悼の意を表し御冥福をお祈りいたします。君の在りし日を偲びつつ、御霊の安らかならんことをお祈り致します。




「ーこれは、太地喜和子にやらせてください、だったら書く。それ以外のヒトを禁ズ。」







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